ココロブログ

自分自身の思考や感情とうまくつき合って行くヒントをコラムでご紹介します。
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同情

私は子供の頃いじめられっ子でした。
教室の前にいじめっ子が4〜5人待ち伏せし、私が登校すると殴る蹴るが毎朝の日課になりました。
その後、登校から下校まで執拗ないじめに耐える日々は、私の体が男子生徒より大きくなった3年生迄続きました。

いじめっ子にいじめられるのはすごく嫌でしたがそれなりに耐えられました。
それより、絶望的に嫌になる状況がありました。
それは、いじめが始まった途端、同じクラスの女の子達が駆け寄ってきて、いじめている男子生徒に対して「よいこさんが可哀想じゃない!いじめないで!先生に言い付けるわよ!」と言って男子に喰ってかかるシーンです。
それは絶えられない位自分が情けなくなる瞬間でした。
そして、やさしいなぐさめの言葉をかけられればかけられる程、惨めで屈辱感を覚えました。

彼女達が自分の味方であり、気遣ってくれているのもちゃんと理解していますし、ありがたい厚意だとも解っていました。
しかし、同時に彼女達に対する行き場のない怒りのようなものがとめどなく湧いて来たのです。
自分の相反する感情をどうにもコントロールできず、つい大きな声で泣いていました。
まわりはいじめられてるから泣いたと思ったでしょうね。(^_^;)

いじめ+惨めさに絶える日々から、私はどんどん卑屈になっていきました。
目立ったいじめがなくなった頃、今度は味方であった女子から総スカンを喰らったのは私の卑屈さからでしょう。
この経験から「絶対に他人にいらぬ同情はしない」と固く心に決め今に至っています。
実は、子供の頃の「同情する味方」に対する感情は、ずっと自分自身「いけない事」だと思ってました。
大人になって、それは自然な心の動きだと知る事が出来て、ひとつ肩の荷が下りたような気持ちになれました。

同情は「相手の身を思っている」感がありますが、実はそうではありません。
同情とは、不幸な人を自分より低めて、または自分より劣った立場の人と捉え、上の立場にいる自分の優越感から出た、偽善的で「一方的な」行為です。
そのため、同情された側は相手に「見下されている」と感じ屈辱感を覚えるのです。
しかし、同情は完全な「悪」とは言い切れない部分があります。
孤立したり絶望的な状況になった人は、偽善的な「同情」であっても人から構ってもらえる事で精神的な支えになる場合があるからです。
また、依存的な人はあえて同情を乞う傾向がありますね。

一方的な「同情」に対して、本当に相手の身を思う双方向な心の動きは「共感」です。
共感とは、相手の意見や感情を自分のもののように捉え、その通りだと感じることです。
共感は相手と自分の立場は同じライン上にありますので、相手は優越感も屈辱感も覚えませんね。
心理カウンセラーのタブーのひとつに「同情」があります。
相手がどんな酷い状況でも、同情からなぐさめの言葉をかけるのではなく、「辛らかったでしょうね」「苦しかったんですね」と共感し、相手の心を開いていくのです。
今度同情する機会があったら、それを共感に変えるように考え方を変えてみては如何でしょうか。(^^)
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